昭和57年4月18日 朝
御理解第23節
氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ。
信心による、心の安らぎと言うか、安心。その安心の心がおかげを受けとめる。安心は、神様が下さるのではなくて、私ども信心を頂く者が、信心の精進によって、言うならば作って行くと言う。自分の精進かによって安心が得られるのである。勿論安心と言うのは、また平生心と言う事も申しますし、心がこう和らいでおることですね。波立たないこと。心が。心がいつも安らいでおると言う。仏教で言う安心とか、立命、安心立命というのとはちょっと意味が違いますですね。
お道の信心によって、教えを行じて行くうちに心が安らぐ。で心に安心が頂けれる。親先生がああ言うて頂くからと、親先生を信ずるところに、その言葉を信ずるところに心に生れてくる安らぎ。その安らぎがおかげを頂くことになるのです。もう、30年も前の話でしたが、私が、ある夏の昼の御祈念を終って、庭と言うても、すぐ裏に古い井戸がございましてね、その井戸の上に、柿木がこうございました。浅い井戸ですから、こうまあ、そうですね、もう短いつるででこう水を汲めるような井戸です。
私その井戸の横のその、木陰にまあ涼んで、涼んでおったっちゅうか、まあそこでいっぷくしておりました。その時丁度、田主丸のむつやの、言うなら信司郎さんのお母さんですね。石井清子さんが、久留米に仕入れにいっておりますから、と言うてあるいろんな事をお願いを。だから私は、ご神前にも出らずにそこでまあお取次ぎさせて頂いて、そしてその時に頂いた御理解ですけれども、その二人で話しておる時に、上から、その木の葉がね、井戸の中にポチっとこう落ちたんです。そしたらこう、井戸の中に、こうちょっと波立つようなね、輪を書くと言うでしょうかね。落ちたから。それで、もうそれ一回ご理解頂いて。
例えば、あの人は神様のような人じゃ。仏様のような人じゃと言うても、信心しておかげを受けるのとは別物じゃと。例えばこの、井戸の水のような清らかな物を持っておっても、心に言うなら、さだ波のような波がこう、波だっておるならね、おかげを、おかげは写らない。とにかく私が、その井戸の上から手を持って行くと、私の手が井戸に写るくらいな浅い井戸ですからね。石井さん見てご覧なさい。ほら波が落ちついたら私の手がこうやってはっきり写る。さだ波が打っておる時には、そのおかげが崩れてしまうでしょう。 この通りです。だから、お取次ぎを頂いて仕入れに行く。お取次ぎを頂いて仕入れに行くから、おかげが頂けるという心の安らぎがおかげを呼ぶのです。と言うてお話をした事がございますがね。だから、今日私が言う安心と言うのはね、心が安らぐと。ね。それになら、信心の喜びがあればそれは和賀心ですよね。和らぎ賀ぶ心。おかげは心次第である。四神様がおっしゃられるように。おかげは神から出ると思うな。氏子の心からとこうおっしゃっておる。
言うならば、安心のおかげと言うても、それがいよいよ確固たるものになって行く事の為に精進がいる。為にです、言わば、合楽理念に元ずく信心の進め方。それはどう言う事かというと。神様がね、氏子紛議でいつも働いておられるということです。氏子中心。ですから、これはなら、神様はいつも私を中心に働いておられるんだと言う、言うなら信じ込みがいるですね。これはなら皆さんの場合でもいいです。ならここに、秋山ようじだと言う人が、ある、その秋山ようじたを中心にして神様はいつも働いておられるのです。
でその働きの中にはです、勿体無いほどしの働きもあっておれば、嫌だなとか苦いなとか、辛いなといった問題もあるわけなんです。けれども、神様がなら、秋山ようじた中心に働いておられんだと分る時に、その辛いものも苦いものも合掌して受ける事が本当だという事が分るでしょう。私ども周辺に起きて来る一切が、私ども一人一人の上に神様は、私ども中心に働いておられる。その働きを向こうに押し返すような事をしては相済まんことになってくるでしょう。
私今日皆さんにね、安心は神様から頂くものではない。私ども信心によって頂けれるものだと。その安心を頂く為には、なら、あのお取次ぎを頂いて心が安らいでいくという、まあ意味の安らぎもありますが。本当のお道で言う安心というのは、ね、言うなら傘一本というなふうにも言われますが、ね、安心のおかげを頂く為には、私どもがいつも、ね、神様は私を中心にして働いておられるんだという頂き方なんです。ね。損する事も、儲かる事も、嫌な事も、好きな事も。苦い事も辛い事も神様が私を中心にして働いておられるのであるから、ね、それを神様、私中心に働いておられるんだとして分る時に、その事を大切にしなければならない。そこから生れてくるのが安心です。
私が神様中心に働いておるのだから、ね、言うなら神様も私ども中心に働いてくださるんだというその思い込みが安心になるのです。ね。もう一番間違えのない心の上の安心の喜び。ね。一生懸命にお参りをするというだけでも、何とはなしに心が安らぐ。ね。だけではない。やはりその、神様が私中心に働いておられるんだとほんとにわからせて頂く時に、ね、不思議に心に安心が生れてくる。だからそういう精進なしには、言うなら、傘一本、いわゆる安心のおかげは頂かれない。
神と仲ようする信心。と言うのはそういう信心ではないでしょうか。ね。神様の働きそのものを私の為に下さった例えばおかげであると頂き、修行で頂く時に、ね、そこに不平も不足もない。ね。神様の働きそのものを有り難く頂く。いわゆる神と仲ようする信心です。神様が下さったものはいらんと向こうへ押し返すことは神様を離すようなものだという事になるですね。ね。まあ言うならば、だんだん神様が、例えばここで言うならば、私本意、大坪総一郎中心に働きなさる。例えば、あの御大祭なら御大祭のごひれいといい。もうそれこそ、何と言うでしょうか。神様の末梢神経があのご大祭の中に使われておるとしか思われないような、まあ行き届いた、有り難いお祭りが出来るでしょう。あれは、私中心にして働いておられるのです。
だからこれは有り難い方。だからそうではない。痛いとか痒いとか、ね、苦しいと思うような事であっても、それは、神様が私中心に働いておられるのであるからそれを合掌して受けると言う手立てがなされていく精進。そこから心が安らいでくる。安心が生れてくる。その安心の心に私が頂いておるおかげは現れておる。頂き止めておるのです。ね。ですから、言葉を変えると、神と仲ようする信心とは、ね、まずめぐりとも仲ようする信心ぞという事にもなるわけですね。
めぐりは難儀の元と形成しておるならです。ね。その、めぐりを向こうに取り除こうというのじゃなくて、そのめぐりそのものを頂こうとする生き方ですから、ね、神と仲ようする信心の内容の中に、そういう言うなら、修行として受けなければならない仲ようする生き方と。もうほんとに夢にも思わんようなおかげが私を中心として現れてくるおかげとがあるわけ。だから、そういうおかげを頂く為に、言うならば、私どもが、まあ、ひとりでに物が出来るようなとおっしゃるようなおかげを頂く為には、やっぱりとかく信心は地を肥やせという、心を肥やす。なら、心を肥やすという事は、養素拝山。ね。言うならば山を拝んでいくという生き方。
言うなら、難儀の元であるそのめぐりそのものを合掌して受けていくという心。ここに神と仲ようする信心の始まりがあり、ね、神と仲ようする信心から生まれてくる合楽世界に住むことが出来るということになるのです。ね。合楽世界というのは、神と仲ようする信心のもう極地です。ね。そういう私は信心を目指していくおかげを頂きたい。ね。心が安らいでくる。と言っただけでも、それは、ね、水がどの田んぼの水であっても、平生であれば上に手を持っていったら手が写るのです。
どんなに清らからな、あの人は神様のような人、仏様のような人と言うても、ね、せせらぎに、ね、こう波立った水の上には手が、影が写らないのと同じどおりです。ね。それがいよいよ信心によって、清まりも、改まりも、信心の日々の改まりが第一。本心の玉を磨くものぞよというような信心に取り組んで行く時にです、ね、いよいよ心が清まって行くだけではなくて、その心が平生になってくる。その平生な心が、ね、和賀心にも繋がっていく。ね。その平生心がおかげをキャッチしていくという事になるのです。
本気で修行さしてもらおう。お互い思いますが、その修行もです、言うならば、心行信行、いわゆる心の行。信心の行というものが、本気で、ね、精進される時に、自分の心の中につくっていく心、それが安らぎである。神様が下さるのじゃない。自分達の精進によって作っていく安心の心というもの。その安心の心にです、言うならば、おかげは和賀心であり。合楽で言われる、心ひとつですべてを創るというのは、そういう心を言うのですね。どうぞ。 (ゆきこ)